01/06
2012年インドGP『小林可夢偉 目の前の壁を越えて』
ニューデリーのインディラ・ガンディー空港へと降下していく飛行機の窓からは、光の少ない街の夜景の所々に打ち上げ花火の煌めきが見えた。
インドはこの日ヒンドゥー教の3大祭典のひとつ、ダシャラーを迎えていた。街は飾り付けで溢れ、深夜を迎えてもなお賑やかさが残る。
午後9時に空港へ降り立った可夢偉は、タクシーに乗り込みホテルへと向かった。
「見ましたよ、空港からホテルに行く途中で見たトゥクトゥクに乗ってた3人の女性、あれは確実にその筋の女性でしたよ。それ見て目が点になったもん。あ〜、この街にもいるんかな、って。でも顔が大っきかったからニューハーフかなって(笑)」
相変わらず道は喧噪に包まれ、至るところでクラクションが鳴り響く。だが不思議とそこに混乱や怒号はない。混沌に見えるその世界の中で、我々の理解を超えた次元で、彼らには彼らだけの秩序が保たれている。
だが、我々の身体はそれを受け付けない。食への注意を怠れば、たちまち身体は悲鳴を上げてしまう。歯を磨くのもミネラルウォーターを使えば、シャワーだって口を真一文字に閉じて浴びなければならない。
チームスタッフの食事を担うホスピタリティのケータリングスタッフは、水道水を一切使わないよう、巨大なタンクでミネラルウォーターを持ち込み、調理だけでなく食器洗いなどあらゆる場面でそれを使用している。
それでも初めてここを訪れた昨年、ザウバー・チーム内でも激しい腹痛を訴えたメンバーがいた。だからこそ今年はさらなる注意をと、全スタッフが外部での食事をやめて1日3食全てをサーキット内で済ませる。念には念を入れて食材も厳選したため、テーブルに並ぶ食事のメニューもいつもとは少し様子が異なっている。
「食事には気を遣ってますね。いつも食べてるサラダもないですしね」
だからこそ、リスクを少しでも減らそうと可夢偉は水曜の夜に現地入りするフライトを選んだ。この地に滞在する時間を少しでも減らし、この地で摂る食事の回数を減らすことが、リスクの軽減につながるのだ。
そんな生活に精神的な抑圧を感じる者もいる。だが可夢偉は全く気にしていないという。
「全然、全然。チームも(食べるものは)一緒やし、作ってくれる料理も緑(サラダ)がないっていうくらいで、だいたいいつも通りやから大丈夫ですよ。まぁ今回は日本からお菓子をいっぱい持ってきてて、『じゃがりこ』とかいっぱい買って来たんで(笑)」
普段の可夢偉なら、レース週末が始まってからは炭水化物や脂肪分は極端に制限し、野菜中心の食生活になる。だが今回だけは別だ。
「お腹壊すんと炭水化物とるのと、どっちがいいですか?(笑) お腹壊したらレースできなくなる可能性がありますからね。レース中にブリブリ出したらヤバいでしょ?(笑) それよりは炭水化物をとってでもお腹壊さない方がいいから」
気にしていないとは言いつつも、やはりどこかで影響はある。昨年のインドで気を遣いすぎて以来、可夢偉はこういった国に来ると逆に便秘が酷くなるようになってしまったらしい。
「体重が増え続けていってます。ホンマに出なくて困ってるんです。毎日、頑張ってトイレに座ってんねやけど……(笑)。イヤんなってきたわ。
これ、気ぃ使いすぎなんですかね? やっぱり野菜とってないからですかね? どうしよ、野菜食べた瞬間にビックリするくらい出たら(笑)」
そんな冗談を言うほどの余裕はあるが、やはりリスクを冒すつもりはない。自分はプロのレーシングドライバーであり、自分の不始末で仕事がこなせなくなることはプロフェッショナルとして断じて許されない。
「街は楽しまずに帰るんかなぁっていう気がしますね」
日曜のレースが終われば、その日の夜にデリーを発つ飛行機のチケットが用意されている。
2週間前の韓国GPが不本意な結果に終わっただけに、ここでは良い結果を出した上でサーキットを後にしたい。コース特性が韓国に似ていることを考えれば、それも不可能ではないはずだ。
「金曜日に走ってみて、土曜日までにどれだけ良くなるかですよね。レイアウト的には大丈夫です。韓国の感触からすると悪い感じはしてないし、大丈夫やと思ってます。あとは路面のダスティさがどうかっていうだけで。まぁ写真とか見た感じでは去年よりはマシっぽいですけどね」
シーズン末までにメルセデスAMGを上回りコンストラクターズランキング5位を奪取すること。その目標は変わらない。
「いつも通りいくらかポイントを獲ることが目標ですね。ここでもクルマ的には問題ないと思うんで、ポイント争いをするチャンスは充分にあると思います。まぁQ3に行ければ良いですね。で、Q3を走らずにタイヤを残して、っていうのがベストですね。努力が必要ではあるけど、メルセデスAMGをランキングで上回ることも充分に現実的な目標やと思うし」
そう言って、海外のメディアが大勢詰めかけた様子を見て、可夢偉はぼそりと漏らした。
「結果が出てなくてもこれだけ人が集まるっていうのは……作戦成功やね」
来季のシートを巡って、海外のメディアも可夢偉の動向に注目している。可夢偉はそこに、敢えて注目を集めるような発言もしてきた。
大きなスポンサーの支援があるわけでもなく、決して楽な状況ではない可夢偉だからこそ、そんな戦い方もある。
インドGPへ向け出発する直前の火曜深夜、可夢偉は1人Twitterの画面を見ていた。
自身のアカウントには多くのファンからメッセージが寄せられていた。そこには多くの応援の言葉に混じって、可夢偉の姿勢を非難する声も含まれていた。
懸命に前だけを見て進んでいこうとしている可夢偉にとってみれば、それは悲しいことだった。
「Twitterを見てたら、ボロッカス言われてるから。『なんやコイツ、応援したってんのに返事せえへんのか!』みたいな。結構ヒドいですよ。『私たちの気持ちを分かってるの?』くらいの勢いで言われますからね」
腹立たしくもあり、不甲斐なくもあった。
だが確かに、可夢偉自身の声としてTwitter上で呟くことはあまりなかった。一度冷静になって、可夢偉は画面に向き合うことにした。
「今年残りの4戦自分の力信じて出せる力出します。そして来年は全く未定ですけど、全力で出来る限りの努力と夢に向かってトライしてみます。この壁を越えた時なんとなく自分がさらに強くなって帰って来れる気がする!! またファンのみんなに力貸して貰うことになるけど宜しくお願いします!」
そんなツイートを発信したのは、こういう経緯があったからだった。
「そんなに大っきくマジメに受け取らないでくださいよ。確かに何も書いてないから、書いといたほうがええかなと思ってマジメに書いたら、そういう風にとられて(笑)」
韓国GPのパドックで来季シート獲得に向けて楽観的な姿勢を見せてから2週間。実は可夢偉の周りでは大きな変化があった。
可夢偉としては、来年も良い環境でレースがしたい。そのためのシート獲得に向けては、楽観的でいられる状況だと聞かされていた。
だが、その状況は変わった。
可夢偉の目の前には、”壁”が立ちはだかった。
「まぁ、苦境……苦境でしょ。1億くらいやったら集められるかもしれへんけど、突然10億集めてやっと(交渉上で)戦えるかっていう状況って、キツいでしょ? しかも1年じゃないですよ、2〜3カ月でですよ。ある意味、交渉しようと思ったら2〜3週間が勝負ですからね。そこで10億持ってこいって言われたら、かなりデカいでしょ。どうしたろかなぁ〜と思って。銀行強盗でもしたろかなと思って(笑)。そのくらいの気持ちなんですよ」
そんな状況に陥ってしまったことに、可夢偉は苛立っていた。周囲の状況に対して、そしてなにより、自分自身に対して。
「状況が変わったんじゃなくて、イマイチ僕の動きが甘かった。甘かったっていうか、結局僕が自分で動くわけにはいかないじゃないですか? 人に頼まざるを得なかったんですけど、人に頼むとそれは(その人にとって)人ごとやから思うように進まない部分もあるし、そういうのもあってなんかイライラしてきたんです。結局、なんか全部自分でやらなあかんようなことになってきたから、腹立ってきて」
スポンサー活動は、F1にやって来た時からアプローチを続けてきたが、日本では思うような結果には繋がらなかった。それどころか、それに繋がりそうな端緒すら掴めなかった。
そんな不毛な戦いに、また身を投じなければならない。
一方で、ファンの間では各個人が資金を出し合ってシート獲得のための支援をしたいという声も挙がり始めた。その声は確実に可夢偉のもとにも届いていた。
プロである以上、資金を持ち込んでまでF1のシートを得たいとは思っていなかった可夢偉が、そうしてでも努力をしてみたいと思えたのは、それだけ多くのファンの期待に応えたいという気持ちが芽生えたからだ。鈴鹿を揺れ動かしたあの可夢偉コールが脳裏に蘇る。
「ファンの人たちの声は分かってるし、心強いですよ。でも、その期待にきちんと応えられるように、人からお金をもらうと税金的に問題になることもあるので、その準備もしっかりしないといけなくて。みんなの期待に応えて、最後にガチャンって捕まったら恥ずかしいでしょ?(笑)
もうちょっとだけ待ってください。今やってるんですけど、僕が10人いたらそれも一気にできるけど、10人いないから。1人じゃしんどすぎますよ(笑)。きちんと、どうすれば正しい形でみなさんの期待に応えられるか、それをしっかりと考えてやらないといけないから」
ファンの人たちからの支援を受けるということは、我々が思うほど簡単なことではない。
その資金を管理する団体、口座、税務上の処理、そしてなにより、支援してくれたファンの人たちへの責任を負わなければならない。どのようなかたちで恩返しができるのか、それをきちんと果たすことができるのか。
そんな疑問も一切含めて、可夢偉は受け容れる覚悟を決めたのだ。
メディアに囲まれることが決して好きではないはずの可夢偉が、海外メディアに囲まれて「作戦成功」と言ったのには、そんな背景があったのだ。
予選開始まで30分を切ってもなお、ザウバーのピットガレージでは慌ただしく可夢偉車の作業が続けられていた。最後のセットアップ調整を行なう機会とはいえ、これほどまでに慌ただしい作業はそう頻繁に見るものではない。
可夢偉はセットアップに悩み続けていた。
解決の糸口を見出すため、金曜から様々なセットアップを試し模索してきたが、その努力が報われることはなかった。
「マシンが決まってないですね、大問題ですよ。今週はずっとそう。恐る恐る走ってるっていうか、毎セッション、ギャンブルやからね。FP-1、FP-2、FP-3、予選と、どこかで当たればそれをベースに煮詰めていこうと思ってずっと変えてるんですけど、何をやっても見事に1個もハマらなくて、全部外れました。オニほどやりたいことはあるんやけど、あまりにも問題がありすぎて、どっから手をつけていいのか分からんっていう状態やから」
金曜フリー走行は13位と16位。その見た目の順位ほど悪くはないと思うと語っていた可夢偉だが、それは翌朝までのセットアップ調整が上手くいけばの話だった。
だがFP-3では18位とさらに低迷。それを受けて、予選に向けてさらなるセットアップ変更が行なわれたのだった。
Q1は100分の1秒差の17位でなんとか通過。厳しい戦いになることは分かっていたが、それでも僅差の戦いであるだけに、1周のチャンスに賭ければなんとかなるかもしれないという思いもあった。
ライバルの多くは、タイヤの温まりの悪さと渋滞の酷さを考慮して、3周分以上の燃料を搭載して連続アタックを行なっていた。
そこで可夢偉は、計測ラップ1周分の燃料だけを積んで、1チャンスに賭けることにした。重量にして僅か数kgの違いでも、そのフューエルエフェクトで0.1秒でも稼げる。その0.1秒が大きく順位を上下させるほど、タイトな争いなのだ。
残り時間2分を切って最後にコースインした可夢偉が、最終コーナーを曲がってQ3進出を賭けた最後のアタックに入っていく。
そしてターン1に向けてアプローチを開始した瞬間、大きなタイヤスモークが上がった。
「ターン1でブレーキングしたら、突然タイヤが”亀”になったんですよ」
可夢偉は憤懣やるかたないといった表情でそう言った。
だが、その場で聞いていた者にはその表現がピンと来ず、一瞬の沈黙が流れてしまった。
「走ってて、前のタイヤが”亀”に……裏返しの甲羅ですよ。絶対そのまま前に滑っていくでしょ?(笑) 自分が運転しててタイヤが亀の甲羅になったらって想像したら、どうですか? 恐いでしょ?(笑) そんな状態です」
可夢偉がそう説明してようやく理解でき、その場は笑いに包まれた。
なんとも可夢偉らしい、独特の表現。だが、そんな自分の感覚や考えを言葉で表現することの苦手な彼にとって、今立ち向かおうとしている”壁”は例えようもないほど高く大きなものだろう。
そのことは可夢偉自身も分かっている。それでも可夢偉は、その壁に立ち向かう覚悟を決めたのだ。
予選最後の場面でフロントタイヤがロックした理由、それは可夢偉のブレーキングミスではなかった。
ピットガレージでマシンから送信されてくるロガーデータを受信し、リアルタイムでマシン状況をモニタリングするテレメトリーシステムにエラーが発生し、データエンジニアが可夢偉車の状況を把握できなくなっていたのだ。
本来であれば、その時の状況に合わせてコーナーの入口、中、出口とそれぞれにディファレンシャルギアの設定を調整し、エンジン回転数、燃料混合比、KERS回生・力行量、ブレーキ前後バランスなどが最適な設定になるようドライバーに指示を出す。だが、テレメトリーがブラックアウトした状態では、それは不可能だった。
KERSのチャージ量を誤った状態でブレーキングすれば、発電元であるエンジンブレーキの効き方が変わり、ブレーキバランスが異常を来してタイヤはたちまちロックしてしまう。KERSチャージ量に合わせたブレーキバランスの調整を行なっていなければならないのだ。
「普段はいっぱい(セッティングを)変えるのがあるんですけどね。KERSのチャージ量のセッティングなんですけど、結構(セッティングによって)違うんですよ。そのセッティングが違ってたら『そらあかんわ』っていう状態です」
ターン1でブレーキを派手にロックさせた時点で、そのアタックはフイになった。そして、可夢偉に2度目のチャンスはもう残されていなかった。
「そこから、もう1周アタック行こうと思ったんですけど、(計測)1周分のガソリンしか積んでなかったから。クルマが頑張って上手くいけばギリギリQ3に行けるかなっていうレベルやったんで、完璧な(燃料が最も軽くタイヤが新品の)状態でアタックすればなんとかチャンスがあるんじゃないかと思ってそれに賭けたんです。ここは連続アタックできなくて1周休憩(スロー走行)を入れないといけないから、積む燃料としては、1周分か3周分ですからね。その燃料の重量差でコンマ1秒でも差が出れば良いなと思って。でも、『1周で良い』って言ったのが裏目に出ましたね(苦笑)」
17番グリッドからのレースが、極めて厳しいものになることは可夢偉にも分かっていた。ましてや、タイヤ摩耗の危惧がない今週末は、多くのドライバーが1ストップ作戦で挑んでくる。そうなれば、逆転のチャンスは決めて少ない。
「『美味しいカレーを食べに来ただけか』って言われないように頑張ります(笑)。何ポイントでも良いんです、1ポイントでも0.5ポイントでも。とにかくこのポジションからのレースですからね」
可夢偉はそう言って笑った。
そしてインドGPの決勝は、ほぼ可夢偉の予想通りになった。
ただひとつ予想とは違ったのは、自分がレースのほとんどをトロロッソの後ろで過ごさなければならなかったという点だ。
スタート1分前を迎え各チームのメカニックがマシンから離れてみると、グリッド上でハードタイヤを履いているのは可夢偉を含めて4台だけだった。そのうちの1台が、トロロッソのダニエル・リカードだった。
同じ戦略となれば、よほどタイヤの保ちに差がなければ、コース上で抜かない限りは逆転は難しい。
結局、レースはその通りになった。
ラップタイムペースは間違いなく可夢偉の方が速い。しかし鈴鹿で苦い経験をさせられたように、トロロッソはストレートが異様に速い。1秒以内についてDRSをオンにしても、KERSを同時に使っても、追いつくどころか離されていってしまう。
リカードのペースに付き合わされるかたちになり、可夢偉のレースは台無しになった。
「DRSを使ってるんですけど、全然追いついていかなくて、話にならないっていう状態でしたね。DRS使ってるのに離される、みたいな。ちょっとオカシイですよね。同じエンジンのはずなんですけど、なんでなんか教えて欲しいですね(苦笑)」
そう言って、可夢偉は悔しさを押し殺した。
マシンの純粋な速さだけを見れば、ポイントが獲れていてもおかしくないレースだった。チームメイトのペレスは、本人曰く”奇跡の1周”を決めてQ3に進んだが、タイヤのパンクもあり2ストップ作戦が機能せずに戦列を去った。
「ペース的にはそんなにすごく悪いわけではなかったしもうちょっと良いレースを期待していたんですけど、とにかく直線の最高速が伸びなくて、全然オーバーテイクができなくてどうしようもなかったですね。あれで前に行けてれば、レース展開は全然違ったんですけどね……」
とにかく、予選Q2でアタックができなかったことが、レース週末を台無しにした。コンストラクターズランキング5位を争うためには、是が非でもポイントを積み重ねていきたいこの終盤戦だが、鈴鹿以降のザウバーは2台ともに不運なレースが続いている。
「そうですね、予選が上手くいってれば全然違ってたはずですね。むしろ今週はそこだけですね。ここでポイントを獲れなかったっていうのはホントに痛いんですけど、来週はしっかりポイントを獲ってメルセデスAMGと戦える位置にいきたいなと思います」
2012年シーズンも残りは3戦となった。そして、次のアブダビGPは4日後には開幕する。
可夢偉は日曜の夜にデリーから出国しインドを後にした。
この異質な国を楽しむ余裕も、お祭りに身を委ねる余裕も、今の可夢偉にはない。
夢を道半ばで終わりにさせないために、可夢偉は壁に立ち向かう。それがどんなに高かろうと、可夢偉は気にしないだろう。そこに目指すべき道がある限り。
(text by Mineoki YONEYA / photo by Wri2, Sauber)
2012年10月30日発行
ITEM2012-0058 / FOLB-0035