01/06
2012年韓国GP『小林可夢偉 あの山河のように、泰然と。』
「カムイ、一緒に食事でもどう?」
チームCEOのモニシャ・カルテンボーンが、カムイを誘った。
コリア・インターナショナル・サーキットのある全羅南道(チョルラナムド)は、あまりにも首都ソウルから遠過ぎた。早朝の東京から2時間のフライトの後、3時間超のドライブ。可夢偉自身はサイドシートで眠っていればいいが、それでも随分遠くまでやってきたものだという感慨は、身体の疲れに刻み込まれている。
「どこに食べに行く?」
その問いに、モニシャたちは当然のようにホテル・ヒュンダイのレストランを提案した。
彼女たちヨーロッパの人間の眼には、韓国のローカルフードは極めて異質なものに映るらしい。木浦で唯一のこの近代的ホテルで食事をするのが最も無難だというわけだ。
しかし、レース週末が始まってしまえば自由に食事を摂ることもできなくなる可夢偉にとって、貴重なチャンスをフイにすることは耐えがたい。この地域独特の、タレに漬け込んだ焼肉。可夢偉はそれを楽しみにしてきたのだ。
嫌がるモニシャを置いて、フィジオセラピストのヨーゼフだけが「トライしてみる」といって付いてきた。
馴染みのその店で、「美味い」といって肉を頬張るヨーゼフを見ながら、可夢偉は鈴鹿の出来事を遠い過去のように感じていた。
周囲の騒がしさに疲れていないかと聞かれて、可夢偉は言った。
「くたびれま……すねぇ(苦笑)。心地良くないですよぉ。僕自身は結構落ち着いてるんですけど、どっちかっていうと周りの人の興奮の方が激しいんじゃないかなと思うけど(笑)」
あの激しい攻防の中でさえ、冷静にペースを保ち、タイヤを温存し、ジェンソン・バトンが背後に迫ると見るや猛然とプッシュした。可夢偉は追い立てられているように見えて、その実は冷静に相手をコントロールしていた。
「アイツのタイヤを先に潰したろと思てやったんです。DRS(が使える差)に入る前くらいに押さえて、エアロ(によるダウンフォース)をなくして。
あのタイムって、決して遅くないんですよね。ベッテルを省けば、すごいペースでの駆け引きやったから……まぁ、苦しかったですよ。プッシュせなあかんけど、タイヤも保たさなあかんっていう、『これどうすんねん!』っていうとこに入ってたから。
最後は(タイヤを)貯めてたんを使ったんやけど、一瞬で終わったから『もうあかんわ』って思ったけど(笑)、最後やからアイツもあそこまで(ロックするくらい)攻めてましたけどね。でも自分の中ではまだ余裕もあったし」
あのレースの直後、可夢偉はやや苛立ったように素っ気なく言った。表彰台の景色なんて「普通だった」と。だがそれは、こんな時にだけ殺到して余計な重圧と労力を強いるだけの一部メディアに対する苛立ちがそうさせたのであって、本心ではやはり感動を覚えていた。
なによりも印象的だったのは、満員のスタンドから”可夢偉コール”が沸き上がったことだだった。
「サッカースタジアムみたいに小さな会場だと声も響きやすいけど、鈴鹿のように敷地が巨大で(スタンドで)囲まれてもいないところであれだけ声が聞こえるっていうのは、冷静に考えたら凄いことやと思うんですよね。そう考えると、期待してくれていた日本のファンのみなさんの前で良い結果が残せて本当に良かったなと思います。何とも言えない感情ですけど、あれ以上(の素晴らしいことは)なかったんじゃないかなと思います」
そう言ってから、可夢偉は慌てて一言付け足した。
「あ、結果っていう意味じゃないですよ(笑)」
可夢偉はあの3位表彰台にさえ満足していない。
冷静にデータを見返せば、鈴鹿では2位も充分に可能だった。もっと上が狙えたはずだった。
だが可夢偉にとって、過ぎたことは”過去”でしかない。今さらどう手を尽くそうが変えることができない過去に、思いを巡らせたところで意味がない。それよりもなすべきは、前を向いて未来を照らす努力をすることだ。
日本のペインターから送られてきた段ボール箱を開けてみると、新しいヘルメットには派手なイラストが散りばめられていた。可夢偉の過去の名場面を描いた作品の数々だ。いつもデザインは彼にお任せの可夢偉も、今回はさすがに驚いた。だが、過去は所詮、過去でしかない。このヘルメットを被ることに、特別な意味はなかった。
「そうですね、残りのレースをしっかり頑張って、できるだけポイントを獲ること、メルセデスAMGの前に出ること。それを目標にチーム一丸となって頑張るしかないなと思います」
コンストラクターズランキングが6位に上がれば、FOMからの分配金の額が跳ね上がる。それはチームにとって大きな意味があった。
「そう、凄いですよ。ボーナスくれないですかね?(笑)」
可夢偉はそう言って笑うが、周囲では、来季のシートを巡る報道が騒がしくなってきた。
その中で、可夢偉がシートを失ったという報道まで相次いで流れた。曰く、ザウバーがスポンサー収入を優先させた結果、可夢偉は切られたのだと。
だが、可夢偉自身はチームから資金の持ち込みを要求されたことは一度もない。
「ハッキリとは言われてないですよ、別にチームからカネを持ってこいって言われてるわけじゃないです。ただ、なんでこんなに決まらんのやろなって考えたら、多分それしかないやろなって思うだけで。まぁ、スポンサーが付けばそれはそれで良いけどね」
可夢偉の信念として、プロフェッショナルなドライバーはそれに見合った報酬を受け取って乗るべきだというものがある。今のF1のグリッドを見渡してみても、可夢偉はすでに実力の証明されたプロのドライバーであり、報酬を受け取るべき側の人間であると。
「カネを持ち込んでまで乗ろうとは思わないんでしょ?」
彼のプライドをくすぐるようにそう水を向けると、可夢偉は今自分が置かれた状況を語った。そして、念を押した。
「でもこれは言わないでくださいよ。静かにしといてください、コソ〜っとね(笑)。僕も静か〜にしてるから」
身の周りで報じられていることの意味を、可夢偉はほぼ理解している。なぜなら、可夢偉の方が周りのドライバーやチームの実状を分かっているのだから。
どれが正しく、どれが正しくないのか。駆け引きのための材料だとしたら、誰が何のためにそんな情報を流しているのか。可夢偉にはそれが手に取るように分かる。
「う〜ん、いろいろありますね。まぁ、好きに言っといてください(笑)。いっぱい楽しませてください(笑)」
そう言って可夢偉は笑った。
ヨンアムのホスピタリティブースの裏には、秋の田園風景が広がっている。その向こうには、山河が夕陽を浴びて雄大な姿をなしていた。
Q2の残り時間は、もう2分を切っていた。
最初のアタックを終えた時点で、可夢偉はチームメイトよりもコンマ4秒速いタイムを刻んで10番手につけていた。新品のスーパーソフトタイヤに履き替えれば、ここからコンマ5秒はさらに速くなる。鈴鹿の速さほどではないにせよ、Q3進出は堅そうだった。
「Very good、凄く良い走りだったよ、カムイ」
レースエンジニアのフランチェスコ・ネンチも、べた褒めした。
そしていよいよ最後のアタック。セクター1、セクター2と自己ベストを更新し、最後のセクションへ。
そこで、ステアリング上のLEDが黄色く灯った。
「カムイ、ターン16でイエローフラッグが振られている」
フランチェスコの声が無線で届いたが、咄嗟にそれがどこかを把握することはできず、可夢偉はコクピットの脇に貼ったコース図を見やった。
それはまさに、これから可夢偉が向かおうとしていた場所だった。中低速のコーナーが右へ左へと連続するセクション。右手にトロロッソのマシンが止まり、マーシャルの手で黄旗が振られている。コンクリートウォールに囲まれたこのセクションでは、ランオフエリアはほとんどなく、濃紺のマシンは半分コース上にかかるようにして息を止めていた。
「KERSやDRSを使う場所でもないし、『う〜ん、これは(スロットルを)抜くしかないよなぁ』と思って抜いたら、えっらい落ちんねんなぁって感じでした。ここは壁が近いから、コースサイドにクルマが停まっているところで攻めてクラッシュしたら危ないし、鈴鹿とは状況が違いますしね」
スロットルを戻したことで、結果的に可夢偉はコンマ5秒を失った。
中古タイヤを履いた1回目のタイムも更新できず、Q3進出のパフォーマンスがありながらもその望みは絶たれた。
「余裕でQ3は行ってましたね。あのままイエローがなくてアタックができてたら37秒台に入るくらいの勢いやったし、実際8位か7位に入るくらいのパフォーマンスはあったから。流れとしては悪くなかったんですけど、運が悪かったですね。まぁ、予選でどこまで行けるかっていうのを楽しみにしてたんですけど、Q3に行けるパフォーマンスがあるっていうことが確認できたんで、まずは一安心してます」
金曜日は鈴鹿で投入された最新パッケージのセットアップ最適化のため、長いストレートでのデータ収集を進めながらも、リアの不安定さに手を焼いた。だがそれは、年に一度しか使われないこのサーキットの路面のダスティさによるものだった。24台のマシンによる走行が進めば、やがてはグリップレベルが上がり、ブレーキング時のオーバーステアは姿を消す。
その狙いは土曜になって当たった。
さらには、可夢偉のC31にはまだ2レース目のエンジンが取り付けられている。寿命寸前のエンジンを使い回した金曜日とは違って、モンツァで走っただけのこのエンジンは、まだパワフルなトルクを可夢偉に与えてくれる。
すでに今季の開発は終了したが、まだ予選でも充分にトップ10を戦える力がC31にはあったのだ。
「まぁレースは全然違うと思うんで。実際、前回マッサは10番手から2位まで来てるし、13位でもそんなに関係ないと思うし、明日は落ち着いてレースしたいと思ってます。あんまり心配はしてませんよ。スタートしてしまえば、あとはレースペース(の良さ)で戦えると思うから。明日はポイント獲ります!」
可夢偉は力強く言った。
どんな戦略で入賞圏を狙おうというのだろうか。
「充分考えてるけど……言わないです(笑)」
路面がさらに改善すると呼んでいるピレリは、1回ストップも可能になるだろうと言った。タイヤに優しいザウバーは、当然のようにそれを狙ってくるはずだ。
明日は1回作戦狙いの粘りのレースになるね。そう言うと、カムイは笑ってはぐらかした。
「じゃあ、1ストップで行きましょ!(笑) う〜ん、1か4かって思ってたのになぁ(笑)」
その饒舌さは、自信の表れでもあった。
日曜のヨンアムは、それまでとは違ってどんよりとした空気が漂っていた。
空には薄雲がかかり、気温は20度を超えているというのに、路面温度は27度にしかならない。コクピット内のドライバーが暑さを訴えるのは、気温のせいではなく昼を過ぎてもなお65%から下がろうとしない湿度のせいだった。
ピットビルディングの向こうに見えていたはずの美しい山河は、気付けば靄(もや)に包まれて霞んでいる。
「フロントタイヤに気をつけろ、ロックさせてはダメだ。高速コーナーでも苛めすぎるな」
どのドライバーにも、そんな指示が飛んでいる。
ピットストップの回数を減らすためには、フロントタイヤの摩耗がカギになる。1回の交換で行けるか否かは、極めて微妙なところにあった。
5つのレッドシグナルがブラックアウトし、2番グリッドからセバスチャン・フェッテルが好加速で先頭に躍り出る。
可夢偉も同じように好加速を決め、真っ直ぐにアウト側からターン1を回り込んだ。
するとブレーキングの遅れたセルジオ・ペレスがイン側に行き場をなくし、前のフォースインディアに追突。それを避けようと、ジェンソン・バトンがニコ・ロズベルグを押し出すような形でターン1のアウト側に逃げてきた。
ロズベルグの外側にあったスペースを狙っていた可夢偉は、仕方なくアウト側のコース外まで退避して続く1.2kmのロングストレートへと加速して行かなければならなかった。
そして、悲劇は起きた。
バトンとロズベルグの後ろに続く、2台のザウバー。スリップストリームに入り、やがて4台は横並びになりそうなほど近付いて、ターン3へと向かっていく。その遥か前方では、レッドブル2台の後ろで2台のフェラーリ、マクラーレン、ロータスが同じようなギリギリのバトルを繰り広げていた。
そして最初にブレーキングを開始したのは、バトンだった。右のロズベルグをけん制するように、やや右にステアリングしながら。そしてロズベルグは、次の右ヘアピンに備えてやや左へと進路を変える。
可夢偉の前に、行き場所はなくなった。
「バックストレートで3〜4台並んだんですけど、結構ギリギリでしたよ。危なかった。いや、もうちょっと広がってくれたらいいのになって思ったんですけど、『誰がどこでブレーキを踏むか状態』になって。バトンが思いのほかブレーキを踏んだんで、それを避けようとしたんですけど避けきれなくてフロントウイングが当たってしまって。前がガラガラだったんでもっと遅らせると思ってたんですけど、早かったですね。で、避けようと思って右に行ったらロズベルグに当たって、完全にもうボーリング状態でした」
ロズベルグのマシンから跳ね返された可夢偉のマシンは、バトンの右フロントを破壊するようにして着地した。
「コバヤシに当てられた! なんてバカなことをするんだ!」
後方の様子を知らないバトンは、そう言い捨ててマシンを止めた。
「彼は後ろから来たと思ってたでしょうからね。でも映像を見たらちょっとは分かったんじゃないですかね。でも僕のミスです。ジェンソンとニコには申し訳ない。それにチームにも。まさか自分が1周目にアクシデントを引き起こすとは思ってなかったから」
ピットに戻りノーズを交換した可夢偉は、入賞の望みがほぼ絶たれたことは分かっていたが走り続けた。
「カムイ、プッシュ、プッシュ! でないと周回遅れにされてしまうぞ」
フランチェスコの声が響く。
そして、レースコントロールから可夢偉に対してピットスルーペナルティの指示が出された。可夢偉はこれを消化してなんとか同一周回のままコースに復帰したが、ペースは一向に上がらなかった。
1周目のクラッシュで左リアをバーストさせた拍子に、タイヤがボディワークを叩いてダメージを負わせていたのだ。可夢偉のC31からはダウンフォースが失われ、走行を続けるうちにその状況はさらに深刻さを増していった。マシンから送られて来るテレメトリーデータは、ダウンフォース量が刻々と減っていっている様子を克明に写し出していた。それはつまり、現在進行形でマシンの損壊が進んでいることを意味する。
失われたダウンフォース量は、40ポイントにも達した。おそらくはフロアにまでダメージが及んでいるであろうと推測したエンジニアたちは、これ以上の走行を続けることは危険だと判断した。
「カムイ、ピットインだ。リタイアしよう」
可夢偉はエンジンを止め、マシンはそのままガレージへと運び込まれた。
「クルマも良かったんで、もうちょっとレースがしたかったですね。普通に走れてたら良いレースができたと思うんですけど、走ってても遅いんで、最後はピットに帰ってきました。あの状態じゃもう、レースにならないから……」
言ってみれば、ペナルティをレース中に消化するために走っていたようなものだった。ここで消化できなければ、次戦のグリッド降格ペナルティとなって負の連鎖を引き起こすことになるのだから。
「まぁ、(実質的に)レースは終わってたから良いですよ。逆に、何でも来てくれっていう状態で。1時間ストップでも良いですよ(笑)」
チームのためにしっかりとポイントを獲ることが本分だったはずのレースを、こんな形で終えなければならない悔しさは言い表しようもない。ましてや、スタートからわずか1周目で自らのミスでチャンスを失うことは、可夢偉にとっても許容しがたい事実だったに違いない。
だが、マシンのポテンシャルは確かだ。それは、同じようなコース特性のインドでも充分に戦えることを意味している。
「そうですね、全然問題ないと思います。ここよりもインドの方がクルマとの相性は良さそうやし。次のインドで仕切り直して、たくさんポイントを獲りたいですね。だから落ち着いてやっていこうと思います」
周囲の騒がしさとは裏腹に、可夢偉は落ち着いていた。
ホテル・ヒュンダイの建つ高台からは、全羅南道の風光明媚な景色が見える。
その雄大な山河のように、泰然自若として。可夢偉は自分にそう言い聞かせ、韓国の地を後にした。
(text by Mineoki YONEYA / photo by Wri2, Sauber)
2012年10月16日発行
ITEM2012-0053 / FOLB-0031