RACE【レース】

20140413-01

 

 決勝のスタート12分前。人で溢れかえるスターティンググリッドとは対照的に、人影もまばらなピットレーンアクセス通路に、ルイス・ハミルトンのフィジオセラピストの姿があった。人一倍目立つ鍛え上げられた長身で、彼は数秒ごとに腕時計のデジタル表示へとしきりに目をやる。6度目か7度目のそれを機に右の拳を壁にやり、そして10秒後、決勝12分前を指す「17:48」の表示を確認してその拳で優しく静かに、一度だけノックをした。

 そこはこの通路にたった1つだけのトイレだった。そのノックの音に外界とは隔離された空間で、ハミルトンは最後の精神集中をしている。

 フィジオセラピストの拳はまだドアの壁に置かれたまま。きっとまだ、グリッド上に駐めたマシンへと戻る時刻をカウントダウンするだけの時間はある。

 しかしハミルトンは、その1度目のノックの音に導かれるように、ドアを開けて姿を現わした。そして2人は無言のまま、グリッドへと歩を向けた。彼らの戦いの場へと。

 

20140413-02

 

 高速コーナーが少なく全開率の高いこのバーレーン・インターナショナル・サーキットでは、メルセデスAMGの速さは圧倒的だった。決勝でも彼らに敵う者などいない。2台のシルバーアロウの間で優勝争いが繰り広げられることは明らかだった。

「アンダーステアがすごく酷いんだ。ターゲットタイムに+0.2は必要だと思う」

 グリッドへと向かうレコノサンスラップで、ハミルトンはマシンのフィーリングに違和感を覚えていた。いや、それは金曜の午後から感じていたことで、予選になってもまだそれが完全に払拭できてはいなかった。

 だからアンダーステアが強く、急激にデグラデーションが進むこのタイヤを守るためには、ラップタイムを想定よりもさらに0.2秒抑えて走るべきではないか。そう提案していたのだ。

 幸い、他チームに1秒以上の差を付けている彼らにはその余裕が充分にあった。

 だが、みすみす勝利を諦めるつもりなどない。グリッドの喧噪から離れたたった一人の空間で、彼はどのように自分の心を整理し、精神を集中させたのだろうか。

 すでにバーレーンの夕陽は西の空へ傾き、砂漠の中の地平線へと消えようとしている。

 コース上を白昼のような人工照明が明るく照らし出すとともに、荒涼とした土爆の岩肌や木々もライトアップされて、初のナイトレースに向けてサーキットは準備が整えられている。

 グリッド上のレッドシグナルが消灯した瞬間、ハミルトンは2番グリッドから真っ直ぐに加速して、ポールポジションのニコ・ロズベルグと並んでターン1へと飛び込んでいった。ハミルトンがインを奪うがロズベルグも諦めず、2台はサイドバイサイドのままターン4の立ち上がりまで激しいバトルを繰り広げる。

 その末にようやくハミルトンが首位を奪い取ったが、ロズベルグも秒差で首位を追い続ける。二人の間には、火花が散るほどの激しさはなくとも、無言の重圧が漂い続けている。

「アイツ、またぶつけやがった!」

 1周目の混乱の中で、後続では接触が相次いでいた。キミ・ライコネンはケビン・マグヌッセンに接触されたと怒りを露わにする。マレーシアではライコネンがパンクを喫し、マグヌッセンはフロントウイングの破損とペナルティで、両者ともに勝負の権利を失っていた。

 低速でラインが交錯するターン8では、ジャン・エリック・ベルニュがイン側から押されるようにしてレッドブルとあわやクラッシュという場面もあった。

「クレイジーだ! 誰だか分からないけど、完全に僕を押し出そうとしたんだ!」

 左リアタイヤを失ってピットへ戻ってきたベルニュはそう叫ぶが、最後尾まで下がり上位入賞が厳しくなってしまったことに変わりはない。

「パワーがない!」

 フェラーリのフェルナンド・アロンソは、開幕から3戦続けてフォースインディアのニコ・ヒュルケンベルグに抜き去れる失態を見せていた。それは彼の腕のせいではなく、フェラーリのパワーユニットの出力不足のせいだ。もちろん、パワーユニットのせいばかりではなく、フェラーリの車体側の空力効率にも理由がある。しかし、メルセデスAMG製パワーユニットを積むフォースインディアを相手に回してはアロンソとてやるかたない。8位に後退し、フォースインディアの後方に甘んじるしかなかった。

 

20140413-03

 

「ニコ、ルイスよりも燃料をセーブできているよ。でもそのままセーブし続けてくれ」

「ルイス、左フロントタイヤをいたわってくれ。ニコよりも少しアンダーが強く出ているようだ。参考までに、ニコはターン8、10で3速ギアを使っているよ」

 メルセデスAMGの2台は1秒台の差で走行を続けている。それぞれがマシンとタイヤの状況を見ながら、適度にペースを抑えつつ走行している。3位フェリペ・マッサ以下のペースを見れば、自分たちが全開で走らなくても良いことなど明らかだからだ。

 6周目、メルセデスAMGのストラテジストとロズベルグのレースエンジニアは戦略の変更を決断する。

 メルセデスAMGは同じ戦略の2台をコース上で正面から戦わせることは許可していない。速さの同じ2台のマシンがコース上でやり合えば、それだけ同士討ちのリスクは高まる。チームの利益を考えれば、それは当然のことだ。

 後方に回ったドライバーが勝つ方法はただひとつ。前走車とは異なる戦略に勝機を見出すことだけだ。

 メルセデスAMGは、決勝で自分たちがこうした状況に直面するであろうことは早くから分かっていた。他チームに対して明らかな差がある現状では、メルセデスAMGの2人による優勝争いになることは自明の理だったからだ。

 だからこそ彼らは、想定されたこの状況に対していかなる対応をすべきかも事前に検討済みだった。

「ニコ、ここが戦略の分かれ目だ。第1スティントを長くする必要がある。タイヤをいたわってくれ」

 彼が選ぶことを決めたもうひとつの戦略とは、第2スティントにミディアムタイヤを履くこと。彼らのシミュレーション上では、最終スティントにミディアムを履いた方がレース距離にして2秒速くチェッカーを受けることができる。

 しかし、後方にいるクルマの方がペースに優る場合、第2スティントにミディアムを履いて距離を稼ぎ、最後にソフトのグリップを生かしてアタックを仕掛けることも可能になる。最後までハミルトンのテールを見続けるよりも、ロズベルグはその可能性に賭けたのだ。(2/3に続く)

 

(text by 米家 峰起 / photo by Wri2, 米家 峰起)

 

 

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